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2020.01.31

【特集】右足切断でも気持ちは前へ! 3月29日に聖火ランナーを務める“日本重量級最強レスラー”谷津嘉章さん(日大OB)

右足切断を余儀なくされた谷津嘉章氏。現在は聖火ランナーを目指して頑張っている=撮影・山内猛

 1980年モスクワ・オリンピックではメダルも期待され、その後プロレスで活躍した谷津嘉章さん(63歳=栃木・足利工大附高~日大卒)が昨年6月、糖尿病のため右足を切断。義足での生活を余儀なくされた。

 ライバルの活躍に落ち込んだりもしたそうだが、3月29日には聖火ランナーとして栃木県足利市内を走ることが決まり、表情は暗くない。1月18日に都内で行われたトークショーでは、前売り券があっという間に完売。相変わらずの人気を誇っている。

 「糖尿病」と聞くと、食べ過ぎなど生活習慣の乱れから来る病気というイメージがあるが、いくつかの種類に分類される。谷津さんが患った2型は、遺伝による影響が大きいタイプ。谷津さんの親戚にも糖尿病の人が多かったと言う。

自身の半生と片足切断を余儀なくされた経緯を綴った著書

 谷津さんの場合も、血糖値が高いなどの症状はあったが、「遺伝だから、急に悪くなることはないだろ」と思っていたと言う。プロレスラーとして、しっかり食べて体を作り、豪快な飲みっぷりを周囲に見せつける必要もあったが、健康診断も定期的に受け、数値を気にしてはいた。6月2日には、引退後も時に助っ人参戦していたDDTの愛媛大会に出場するほど元気だった。

 しかし、靴ずれからできた右足親指の血豆が膿んできた。普通なら何もしなくても完治する程度であっても、この種に対して抵抗力が衰えているのが糖尿病の特徴。あっという間に壊疽(えそ=体の一部が死んだ状態になること)が進んだ。同23日に「すぐに切断しなければ」との診断。手遅れになると、ひざの上から切断する大腿切断を余儀なくされるとのこと。迷っている時間はなかった。25日には手術に踏み切った。

 「最初は、自分の足を見られなかったですよ」。翌26日は、レスリング界の先輩として行動を共にし、のちに方向性の違いから決別したままになっている長州力(本名吉田光雄さん=専大OB)の引退試合が後楽園ホールで華々しく行われ、そのニュースに接して「なんだ、この差は!」と落ち込んだと言う。

幻のモスクワ・オリンピック代表の意地が気持ちを支えた

義足を聖火に見立て、走る日を目指す谷津さん=撮影・山内猛

 だが翌日、日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕・新会長が1980年モスクワ・オリンピックの幻の代表を2020年東京オリンピックの聖火ランナーに起用したいという構想をニュースで見て、いくらかでも気持ちが立ち直ったという。「長州は長州、オレはオレ。それぞれの生き方がある」と前を向くことができ、きついリハビリに耐えた。

 右足を切断したから「完治」ではないのが、この病気。医師から「左足も切断しないよう気をつけましょう」と言われたとのこと。事実、1964年東京オリンピック代表からプロレスへ進んだ杉山恒治さん(サンダー杉山)は、糖尿病によって両足と左手首を切断している。「自分もそうならないとは限らない。十分に気をつけたい」と言う。

 聖火ランナーは、JOCからは具体的なアプローチがなかったので、栃木県の一般公募に応募。高校と大学卒業後の数年を足利工大の職員としてすごした地であることと、「人口が少ないから、東京よりは受かりやすいだろう、という気持ちで」と笑う。

 走る距離は数百メートル。今の義足では無理で、競技用の義足が必要。「生活必需品」ではないので全額自己負担。100万円以上はかかるので、スポンサーを探している最中だ。JOC山下会長の提案した“モスクワ・オリンピック代表によるイベント”にも期待しており、こちらの方にも期待している。

プロ選手として世界最初にレスリングに復帰出場した1986年

 谷津さんは栃木・足利工大附高時代の1974年にインターハイで優勝。日大へ進んで1976年から1980年まで全日本選手権で5連覇し、1976年モントリオール・オリンピックに20歳で出場し(4回戦進出)、1978年アジア大会と1979年アジア選手権を制覇。“日本重量級最強のレスラー”と言われた。

2002年6月の全日本合宿で、アントニオ猪木さんとともに総合格闘技を紹介した谷津さん(前列左から4人目)

 モスクワ・オリンピックを前に足利工大のサポートでソ連へ長期修行。ソ連選手とも互角に闘えるまでになった。「日本選手は気持ちで負けていたんだ、と思いました。世界王者相手に、最初はやられても、2ヶ月後にはいい勝負ができましたから」。

 ボイコットによってオリンピックのメダル獲得の夢は消え、アントニオ猪木さんに誘われて新日本プロレスへ。長州力についてジャパン・プロレスへ移ったあとの1986年、スポーツ界のプロアマ・オープンの波がレスリングにも押し寄せた。国際レスリング連盟(FILA=現UWW)からの国内大会限定の承認を受け、1986年に再度オリンピックのマットを目指して全日本選手権に出場し、優勝した。

 この時は、オリンピック・イヤー以外は10人もいなかった報道席が、100人を超える記者とカメラマンで埋まった。優勝後、「あなたにとってレスリングとは?」と聞かれ、「三十路(みそじ)の青春」との名言を残した。

 結局、FILAは1988年ソウル大会では「プロアマ・オープン化は時期尚早」と決定し、またもオリンピックの夢は消えた。レスリングのオープン化は1992年からだが、谷津さんの挑戦がなければ、もっと遅れていたかもしれない。2000年代には日本協会の総合格闘技委員長として、レスリングと総合格闘技の橋渡しをした。

1月18日に都内でトークショーを開いた谷津嘉章氏。左は司会の流智美氏(プロレス評論家)=撮影・山内猛

 「2020年東京オリンピックの1年前に片足切断…。運命的なものを感じるんですよ」。1年前だったからこそ、話題にも上ったし、聖火ランナーにも選ばれた。「2020年だったら、オリンピックへ向けて慌ただしく、注目されることはなかったですよね」(笑)。注目されることで、何らかのメッセージを送ることができる。それは自分自身の生きるエネルギーにもなる。

 もうプロレスはできないので、収入源はトークショーや、それに関連した仕事のみ。「現役時代のように外国車に乗ることはできないですよ」と言う一方、「今までが人生のプロローグ(序幕)。聖火ランナーも2020年オリンピックも、これからの人生の始まり。障がい者になったことで、その経験を使って人を励ますこととか、やるべきことはたくさんあります」と、気持ちは前を向いている。







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