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2020.06.15

《投稿》オリンピックに学ぶ…心豊かにたくましく、未来を拓く、人財の育成を目指して(おかやま山陽高主幹教諭・横山茂嘉)

 岡山・おかやま山陽高校の横山茂嘉監督より、岡山県高等学校体育部会(6月9日予定=延期)で発表する資料を「レスリングの選手、若い指導者の知識の足しになり、平和の大切さを体感していただければ」と投稿していただいた。

 2013年のレスリングのオリンピック競技からの除外危機の時には、率先して署名活動に取り組み、全国一の署名数を集めるなど、レスリングの発展に情熱に取り組んできた(関連記事=2013年3月12日)。

 運動の基礎・オンライン授業・陸上競技とレスリングを通してスピードの育成、体の使い方を実践し、動画にアップしている。同時にお届けしたい。

《オンライン・トレーニング》 


オリンピックに学ぶ
心豊かに、たくましく、未来を拓く、人財の育成を目指して

おかやま山陽高等学校
主幹教諭 横山 茂嘉

 1936年7月、ドイツ・ベルリンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1940年のオリンピックは東京に決定した。場所は駒沢。東京市は駒沢に11万人を収容できる世界最大のスタジアムを建設する計画を立てた。しかし、それから1年も経たない1937年7月に日中戦争が勃発した。日本は世界から孤立し、東京オリンピックの開催に批判が浴びせられた。

 IOC委員の嘉納治五郎は、1938年3月、エジプト・カイロで開かれたIOC総会に出向き、そこで各国の委員を説得し、改めて東京開催を決定させた。しかしその帰路、5月4日に氷川丸船内で死去。情勢はますます悪化し、2カ月後に日本はオリンピックを返上した。

 嘉納は東京オリンピックの開催を信じて帰らぬ人となった。「命絶えようとも、わしの思いは尽きぬ」。

嘉納治五郎

 東京で行われるはずだったアジア初の平和の祭典は戦争に取って代わられ、東京の代替地として開催される予定だったフィンランド・ヘルシンキ、4年後のイギリス・ロンドンの時も戦争は止まず、オリンピックは2大会連続して中止となった。そして1945年8月15日、日本が降伏して太平洋戦争は終わった。

 終戦から3年後、1948年ロンドンオリンピックは開催されたが、日本は参加を認められなかった。そこで日本水泳連盟は、現地と同日同時刻に日本選手権を実施した。そのレースで、若きエース古橋廣之進は、現地のオリンピックの優勝記録より速いタイムを叩き出した。

 世界は驚き、日本国民は奮い立った。仕掛け人は嘉納に仕えていた田畑政治。「嘉納先生の想いは俺が果たす。」田畑の東京オリンピック開催計画が動き出した。

 時は流れ、1959年5月に西ドイツ・ミュンヘンで行われたIOC総会で、再び東京オリンピックの招致に成功した。日本政府を納得させるためには、経済効果という文言は有効であった。三種の神器、新幹線開通、高速道路の建設、日本は高度経済成長を遂げた。そしてワシントンハイツの返還にも成功、選手村や放送局も完成し準備は整った。開会式は1964年10月10日、国立霞ヶ丘陸上競技場で華やかに開催された。

 ギリシア・オリンピアで灯された聖火には平和への願いが込められた。栄光の最終聖火ランナーには、1945年8月6日のその日、広島県で生をうけた陸上選手、19歳の坂井義則君が抜擢された。トラックを鮮やかに駆け抜け、聖火台に誓いの火をかざすその姿は輝ける未来を予感させた。

金メダル5個を獲得、好成績をおさめた1964年東京オリンピックのレスリング・チーム

 競技が始まると、日本はウエイトリフティングの優勝で勢いが付き、体操5・レスリング5・ボクシング1・柔道3・女子バレーボール1の合計16個の金メダルを獲得し大会は大いに盛り上がった。そして何より価値のあることは、日本国民が、国や地域を問わず参加選手に敬意を表し、賞賛の拍手を送ったことだった。

 日本人は東京オリンピックから愛を学び、未来へのスタートラインに立った。

 令和元年、私は駒沢公園の広場を歩いている。広場の東側には立派な競技場が見える。すると、ふとある思いが浮かんできた。もし、あの時代が争いのない平和であったなら、「君は世界の中心で、青春のすべてを賭けた魂の祭典を体験したはず」。幻の歓声と悔し涙が雲の中に消えていく。

 1964年、東京オリンピックの閉会式は、国別に整然と挙行する予定だったが、選手達は国境を越え、手をつなぎ、弾けるような行進をした。観客も選手も一体となり会場は大歓声に包まれ、平和の祭典を体現した眩いばかりの情景であった。

 あの日、雲の中に消えた歓声と悔し涙は、雲の上でひとつになって舞い降りてきたのか。聖火は、人々の心に希望の火を灯し、静かにその姿を消した。
 
 2020年、半世紀を超えて東京にオリンピックが帰ってくる。国家を代表する努力の天才たちは、真のスポーツマンシップを発揮してくれるだろう。そして、大空に放つ希望の矢が、宇宙に届く平和の光になることを願ってやまない。

東京オリンピックの開幕を待つ国立競技場

年      表 解       説
・BC776年 第1回 オリンピア ・オリンピックに学ぶ
・AD393年 第293回 オリンピア  
       ~1500 years have passed~ ・永田秀次郎・平沢和重
・1896年 第1回  アテネ  
・1912年 第5回  ストックホルム(日本初参加) ・跳躍の偉才
・1936年 第12回  東京(決定)  
・1938年 第12回  東京(返上) ・体操の神様
・1940年 第12回  ヘルシンキ(中止)       
・1944年 第13回  ロンドン (中止)  ・1969年アポロ11号月面着陸
・1948年 第14回  ロンドン(参加できず)       
・1959年 第18回  東京(決定) ・1980年モスクワオリンピック
・1964年 第18回  東京(開催)  
・2013年 第32回  東京(決定) ・岸清一体育館
・2020年 第32回  東京(開催予定)  
・2024年 第33回  パリ(開催予定) ・未来のオリンピック
・2028年 第34回  ロサンゼルス(開催予定) パラリンピック

 光輝くエーゲ海,古代ギリシア文明が栄えたアテネには,繁栄の象徴であるパルテノン神殿がそびえる。眼下に広がる白い町並みにはギリシャンブルーが注がれ,まさに神秘の歴史を感じさせる。ここでは独特の芸術や文化が育まれ,なかでも人々の心を魅了してやまないオリンピックはこの国で産声をあげた。

 紀元前8世紀、古代ギリシアには、各地域にポリスと呼ばれる都市国家が存在していた。ギリシア国内では、生死を賭けたポリス間の争いが絶えることなく、国の存在すら脅かすようになっていた。しかし、それに危機を感じた者たちが立ち上がった。

 古代の人々のなかにも、平和には普遍的価値があると信念を抱いた者たちがいた。そのなかにオリンピアを治めていたイフィトスという王がいた。イフィトスは、太陽神アポロンに教えを請うた。すると、「全能の神ゼウスに捧げる祭典、オリンピックを行え」。とお告げを受けた。イフィトスは、そのことをギリシア全土に伝え、オリンピアに猛者を集結させた。そして、ここに聖なる休戦、第1回オリンピックが紀元前776年に開催されたのだ。

 古代の人々の崇高な精神によってオリンピックは開催され、その舞台では絶対に不正は許されず、ルールは厳格を極めた。

 第1回古代オリンピックでは、約191mを走って競うスタディオン走の1種目だけであった。その後、中距離走・長距離走・走り幅跳び・槍投げ・円盤投げ・レスリング・ボクシング・そして馬車競技などと発展していった。

 67年のオリンピックでは、生涯「暴君」と呼ばれた皇帝ネロが馬車競技で落車し、リタイアしたにもかかわらず優勝となった。審判員がネロを恐れていたためだ。これに対し、観衆は猛然と抗議の声をあげた。翌年、ネロが亡くなり、その大会は歴史から抹消された。

 すべての人間は平等で一人一票の原則。ギリシアは世界で初めて民主主義を確立した。また、その精神はオリンピックにも受け継がれ、1170年間もの繁栄を誇った。しかし、紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配され、ギリシア以外の地中海全域からも競技者が参加するようになり次第に変容を遂げていく。やがてオリンピックも衰退し、393年に終焉を迎えた。

近代オリンピック第1回大会のメーン競技場、パナシナイコスタジアム

 1500年もの時を経て救世主が現れた。フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だ。クーベルタンは、1896年にオリンピック発祥の国、ギリシア・アテネで第1回近代オリンピックを開催し、見事に復活させた。その大会で行われた競技は、陸上・水泳・体操・レスリング・フェンシング・射撃・自転車・テニスの8競技。ウエイトリフティングは体操として実施され、ヨットは悪天候のため中止となった。1900年はフランス・パリ、1904年はアメリカ・セントルイスと世界に広がっていった。

 このように2800年も前からオリンピックは存在し、1170年の歴史を築き、1500年の空白を経て、そこから130年が経過し、現在の姿となった。

 2020年、東京から放たれる70億人の希望の矢が宇宙に届けば、300年後はどうなっているのだろうか。宇宙のどこかで、オリンピック・パラリンピックの選手が共に競い、ひとつになっているかもしれない。

 私が10歳の時、アメリカが打ち上げたアポロ11号が月面に着陸して半世紀が過ぎた。あのときの興奮と感動は今も忘れない。テクノロジーと愛が調和した瞬間だった。

 ラグビー・ワールドカップが日本で開催された。ラグビーは15人がそれぞれの役割を果たし、後ろにパスを回しながら前に向かってトライする競技だ。試合終了でノーサイド。前へ、未来へ。

古代ギリシャのシンボル、パルテノン神殿。アスリートの奮戦を見守ってきた

 スペインの建築家、アントニオ・ガウディは、一代ではなし得ない闘いに挑んだ。サグラダ・ファミリアの建造である。その意思は、ガウディ亡き後も受け継がれている。藍から学び青となり、夢を形に。

 最後に、私はオリンピック出場を夢見て、大学からレスリングをスタートさせた。しかし、1年生の冬に全治2年という思わぬ事故に見舞われ、大学では選手としての実績を残すことはできなかった。それでも教員になり、1984年ロサンゼルスオリンピックの選考会に出場するだけの力はつけた。描いた夢には遠く及ばなかったが、怪我と復活から多くのことを学んだ。その経験は今でも生きている。

 それは、常に学び続ける心。そして学ぶ人を応援する心だ。その心を忘れず、これからも師弟同行を胸に歩んでいこうと思う。

 56歳の時、近代オリンピック発祥の地、ギリシア・アテネで開催された世界マスターズに出場した。また新しい学びを発見できた。







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