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2020.08.20

【特集】実らなかった“36歳の挑戦”だったが、多くの人が共感…プロボクシングの世界で燃えた米澤重隆さん(青山学院大レスリング部OB)-(上)

 人は大人になると、何かと理由をつけて挑戦することを諦めてしまいます。年齢が…、環境が…、家族が…。できない理由を探して、挑戦することから逃げようとします。ヨネにはいくらでも諦める理由がありましたが、彼は逃げませんでした。

 年齢や環境を言い訳にはしない。何かに挑戦するのに遅いということはないし(年齢制限のあるものを除く)、どんな環境でも最大限のベストを尽くすことはできる。できない理由を考える前に、どうしたらできるかを考えて、チャレンジする。その先にある結果は、どんな形であれ、実り多きもの。人生の財産になることは間違いありません。

 最近出版された「一八〇秒の熱量」(山本草介著)に対するスポーツ・ジャーナリスト、佐久間一彦氏の書評の一部だ。描かれているのは、青山学院大レスリング部OBの米澤重隆さん(43歳)。30歳でプロボクシングの道に進み、 “定年”の37歳を目前にした無謀とも思われる闘いのドキュメンタリーだ(書評中、「ヨネ」と書かれているのは、筆者が部の1年先輩で、先輩から後輩へのエールだから)。

大きな反響を呼んでいる“中年ボクサー”のドキュメンタリー、「一八〇秒の熱量」

 出版した双葉社の熱意がすごい。数多くの新聞の一面下の広告で宣伝するなどの力の入れ方。書評も多く書かれ、スポーツ報知では、中面だがほぼ1ページを使って著者のインタビュー記事を載せた。世界王者や知名度のある選手を扱った書なら分かるが、日本ランクにも入れなかった“中年ボクサー”の生き様を描いた書としては、異例の扱われ方と言っていい。

 当の米澤さんも、メディアの反応に「びっくりしています」と困惑気味。著者の山本氏はフリーランスのTVディレクターで、2013年に米澤さんの定年までの9ヶ月間を密着取材してNHKのドキュメンタリーで放送。7年経っても冷めることがなかった熱き気持ちを出版した書だ。

才能に恵まれないボクシング選手だったが…

 日本でも東洋太平洋でも世界でも、チャンピオンになれば37歳の定年が適用されず、ボクシングを続けることができる。挑戦を続けたかったから、37歳で終わりにしたくなかった。だが、才能も技術もスピードもなく、優れた反射神経もなければ、KOにつながる一発パンチもない選手だ。

ボクシング生活で真っ赤に燃えた6年前を振り返る米澤重隆さん

 夜勤続きの仕事を余儀なくされ、腰痛もあった。NHKの取材開始時点で5勝6敗2分け。チャンピオンなど手が届くはずもない目標だったかもしれない。

 「努力にまさる天才なし」「努力は嘘をつかない」という言葉は、否定されるものではないが、年齢を重ねていくと、努力では埋められない才能の差があることは、だれもが感じていく。それでも、夢を追い続ける人もいる。20代前半なら周囲のだれもが理解する。後半なら「悔いのないようにやればいい」だろうか。だが、30代半ばを超えていたら…。

 同時進行の3回連続放映の予定が、最終的に11回になったのは、夢をあきらめるのが普通の年になっても、周囲の視線をものともせずに自分を貫く姿が山本氏の胸を打ったから他なるまい。

オリンピアンの監督に鍛えられ学生2位となったレスリング時代

世界10位の選手に挑む前の米澤さん=2013年9月、オーストラリア・ゴールドコースト(本人提供)

 米澤さんは、千葉県の中学でレスリングを始め、八千代松陰高時代は1994年の国体5位が最高。現在の井上謙二・男子フリースタイル強化委員長(自衛隊=当時京都・網野高)が高校三冠王者に輝いていた。青山学院大へ進んだ時は「インカレ(全日本学生選手権)の決勝に残るとか、全日本選手権に出ることなど考えられない選手だった」と言う。

 1996年アトランタ・オリンピックの代表になった三宅靖志監督のもとで実力を伸ばし、3年生の時の1997年全日本選抜選手権で3位、翌1998年全日本学生選手権で2位へ(ともにグレコローマン76kg級)。

 新人選手権ではベスト8が最高だったというから、大学の後半で実力を伸ばしたことになる。3年生の時に階級区分が変わり、「74kg級が76kg級に変わったことがよかった。あのままなら、74kg級は無理になっていたので82kg級でした。その階級では、上には行けなかったでしょう」と振り返る。

 当時の76kg級の全日本王者は2度のオリンピック出場の実績を残した片山貴光(自衛隊)。全日本選抜3位までいっても実力の差は明白で、その時は、「片山さんが引退したあと、オリンピックを目指せるかなあ…」という気持ちだったという。

 ところが、2位になった全日本学生選手権の決勝で肩を脱臼。この負傷が尾を引き、レスリング選手としてはそこまでだった。当時はレスリングと総合格闘技がリンクし始めた頃。レスリング界からも多くの選手が総合格闘技や“関節技のあるレスリング”のコンバットレスリングに参加していた。気楽な気持ちで全日本コンバットレスリング選手権に出場し、優勝したこともあるが、本格的に取り組む気持ちはなく、格闘人生はそこでいったん終わった。

 しかし、社会人生活を続けていくうちに、自らの人生に不完全燃焼を感じたのだろう。28歳で総合格闘技の世界に足を踏み入れ、プロの大会に出るまでになった。打撃の技術を身につけるためボクシングを学ぼうとしたのが30歳。それが、人生をかけた壮絶な挑戦の幕開けだったとは、当時はつゆほども思わなかった。

《続く》







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