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2021.01.02

【新春特集】永田克彦さん&浜口京子さんが熱きメッセージ(2)

《第1回》  

(司会=布施鋼治/対談撮影=保高幸子)


ともにプロレスをきっかけにレスリングの道へ

1993年5月のデビュー戦に臨む浜口京子さんと見守るアニマル浜口さん(東京・スポーツ会館)

――レスリングを始めたきっかけをお願いします。

浜口 赤ちゃんのときから、母に抱っこされてプロレス会場に父の応援に行っていました。プロレスラーの方を直に見ていたので親近感がありました。小学校3年か4年のときの文集に、将来の夢として「プロレスラー」と書いたんです。そのあたりから、いずれプロレスラーになるんだろうなぁー、という気持ちがありました。

――プロレスラーになることが最初の夢だったわけですね。

浜口 中学1年生のとき、父と「将来、何になりたいんだ」という話になりました。でも、「プロレスラー」と言えなくて…(笑)。お昼ごろから話して、打ち明けられず夕方になってしまいました。勇気を出して「プロレスラーになりたい」と言ったら、反対されることもなく、「明日から道場(浜口ジム)に来い」となって、ボディビルをやりました。しばらくしてから女性会員さんが入ってきて一緒に練習していました。関節技とかの練習もしました。

――レスリングではなく、プロレスラーになるトレーニングですね。

浜口 母が「プロレスやるなら、レスリングの基礎があった方がいいんじゃないか」と言って都内にあるレスリング・クラブを探してくれ、代々木クラブに通うことになりました。人生の大きな分かれ目は父、レスリングに枝分かれするところは母の力でした。母がレスリングを勧めてくれなかったら、そのままプロレスの道へ行ったかもしれません。

永田克彦さんが目標としていた兄・裕志さん。1992年4月のアジア選手権(イラン=写真)であと1勝すればオリンピックのマットが待っていた…

――永田さんは?

永田 私もプロレスがきっかけですね。家中でプロレス中継を見て熱狂していました。それで、強い人へのあこがれを持っていました。身近なスポーツとしては野球があり、野球をやっていたのですが、さほどうまくはなかった。小学校5年生のときにロサンゼルス・オリンピックを見て、レスリングも見ていました。同じ時期に兄が高校からレスリングを始めたこともあり、特にレスリングという競技に注目して見ていたら、その肉体や強さに釘付けになり、これこそが自分が求めていたものだと思いました。

――すぐに始めたのですか?

永田 兄が高校に入学してから始めたこともあり、レスリングというのは高校に進んでから始めるものだと思っていました。近くにキッズ・クラブもなかったですし、小学生からレスリングをやっている子がいることも知らなかった。高校になったらレスリングをやる、という気持ちでいました。

――現実は、当時でも高校入学後にレスリングを始めるのは遅かったのではないですか。

永田 遅かったですね。レスリングをやるため兄と同じ高校(千葉・成東高校)に行きました。地元ではある程度有名な進学校でもありまして、そこでレスリングをやるんだ、という気持ちでいました。

レスリングに関しては「なぜか負けず嫌いでした」(浜口さん)

「最初の目標はプロレスラーだった」と話す浜口京子さん

――平成元年のことですよね。当時のレスリングは、オリンピックで金メダルは取っても、今ほどのメジャーな存在ではなかったですよね。レスリングにはどんなイメージを持っていましたか?

永田 みんながやっていないから、自分はやってやろう、という思いでした。メジャーではないからやる価値がない、とは思いませんでした。オリンピックでは金メダルを取りますし、そういったすごいスポーツですが、やっている場所も人も少ないわけで、だからこそ自分はやるんだ、と思いました。

浜口 吉村さん(祥子=現JOCエリートアカデミー・コーチ)が出ていた世界選手権のテレビ番組があって、母も一緒に見ました。みんなで海外に行って試合をするのが楽しそうで、母とともに画面にくぎ付けになりました。こういう世界があるんだな、というあこがれの気持ちを持ちました。

――最初の頃は、キッズ・レスリング出身選手と技量の差は埋めがたかったのではないでしょうか。

浜口 私の場合は力、パワーで勝負、という気持ちでした。小学校の頃から、斜め懸垂とかの体力測定はいつまでもやっていて(笑)、パワーは周囲よりあるな、ということを感じていました。小学校のときにやっていた水泳でも、息継ぎなしでかなりの距離を泳いだし、腕相撲やっても負けなかった。技術の差をパワーで埋める、という気持ちでした。

――それで通じたわけですね。

浜口 いえ、代々木クラブでタックルを中心としたレスリングの技術を学び、練習するんですが、パワーだけでは先輩とのスパーリングで通じないことが多かったです。熱い練習でした。そこで涙を流しながらもまれ、持ち前のパワーと気持ちが合わさって、その後があったと思います。コーチの皆様や吉村さんがいて、接することができたのも大きかったです。

「つらいスポーツを選んでしまった」と振り返る永田克彦さん

――負けず嫌いの性格ですか?

浜口 根性というか、負けず嫌いの気持ちがあったからこそ、やられても、やられても、続けることができたと思います。でも、すべてに、というわけではないんです。ピアノや塾に通っても長続きしなかったです。習字だけは、なぜか小学校の6年間、続きましたけど、何をやっても長続きしない子でした。中学校で空手とバレーボールをやりましたが、結果が出ないこともあって辞めました。でも、レスリングだけは違いました。レスリングに関してだけは、なぜか負けず嫌いでした。他のことは、負けても何とも思わないんですけど(笑)。

永田 ボクも負けず嫌いの気持ちが強かったですね。それがあったから、今があります。最初からうまくいったわけではないです。高校へ行ってレスリングをやる、という気持ちが強かったせいか、「うまくいく」という変な自信はあったんです。実際にやってみたら、相手を倒すことやバックへ回ることがこんなに大変なことなのか、と実感しました。体力もなく、「つらいスポーツを選んでしまった」という気持ちになりました。

インターハイに出られず「このままでは終わりたくない」(永田さん)

大学2年生(1993年)の秋、最後の新人選手権で優勝。台頭を始める

――永田さんは、高校の時は全国大会での上位入賞はなかったですよね(3年生の時の全国高校生グレコローマン選手権のみ=途中敗退)。

永田 そうです。インターハイにも国体にも出られませんでした。でも、「強くなりたい」という気持ちはしっかり持っていました。実は、入学前は「高校でまずまずの成績を残して、スポーツ推薦でブランド大学に行って、大学生活を楽しみたい」くらいの気持ちだったんです。でも、3年生のときのインターハイにも出られず、このままでは終わりたくない、という気持ちが出てきました。

――どうやってはい上がろうと思ったのでしょうか。

永田 小さい時ときから「普通で終わりたくない」という気持ちは強かったので、「勝つまでとことんやってやろう」という気持ちになりました。根本は、その負けず嫌いだったと思います。

浜口 やはり気持ちだと思います。私の場合、母が励まし続けてくれたことが大きかったです。代々木クラブの練習場は文京区白山にありまして、練習が終わって、チームメートと最終バスを待ちながら「今日もつらかったね」とか話し、途中で別れて浅草まで帰るんですけど、母がバス停まで自転車で来て待っていてくれました。家までの道で、つらい気持ちをはき出し、時に泣いてしまって。でも、支えてもらえるという気持ちが頑張りにつながりました。

1997年、初めて世界一になったあと、思い出の浜口ジム(現在の場所とは違う)で記念撮影

――バス停まで迎えに来てくれ、つらい気持ちを聞いてくれるだけでも、大きな支えになるんですね。

浜口 そうしたものがなければ、続けられなかったと思います。正直なところ、水泳よりレスリングの方がはるかにきつかったです。体力面もメンタル面も。なぜ、より厳しいレスリングを耐えられたかと言えば、ちょっとした支えが大きかったと思います。アニマル浜口あっての浜口京子と思われていますが、母の存在は大きかったです。

――アニマルさんが迎えに来ることは?

浜口 ジムで夜遅くまで指導していたので、迎えに来ることはなかったです。でも、たまに練習を見に来てくれました。コーチや選手の皆さんが歓迎してくださって、父が熱く人生論を語っても聞いてくださいました。

《続く》







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